今回は、パーソナルモビリティを開発している平田 泰大さんから刺激をいただきました。現在、アメリカおよび日本で販売、そして、欧州への進出を目指し、歩道のマーケットを創っているWHILL(ウィル)でエンジニアとして働いている平田さん。

子どもの頃の夢は「F1ドライバーになること。」

しかし、現実は厳しく、夢を諦めざるをえなくなり、大きな挫折を味わった。

そこから、どのようにして今の職に就いたのでしょうか。

「0からモノを創るエンジニアとしての考え」や「無理だと言われた環境を変えてきた平田さんの考え」などを根掘り葉掘り聞いてきました。

平田 泰大Yoshihiro Hirata

2009年日本大学卒業後、曙ブレーキ工業株式会社にて、自動車向けブレーキの機構開発およびコンセプトモデル開発に従事。2014年WHILLに参画。プロトタイピングから量産まで、車体の設計を担当している。

現在のお仕事

Redox.

現在、どういうお仕事をされていますか?

平田 泰大

今はWHILL(ウィル)という会社で、パーソナルモビリティを作っています。
電動車椅子の規格で作られた、一人乗りの歩道を走れる乗り物のことです。
私は、そこで車体設計のディレクションをやっています。
メカニカルな、車体部分の設計、設計チームの取りまとめですね。

Redox.

どういう経緯で今の職に就いたのでしょうか?

平田 泰大

実は、はじめは、曙ブレーキという部品メーカーに就職しました。
車や新幹線などのブレーキを専門に開発しているところです。
機械部品の設計をしていました。

 

幼少期からものづくり

Redox.

もともと、車が好きだったんのでしょうか?

平田 泰大

小学生のときに、ミニ四駆が流行っていて、
おもちゃのミニ四駆を買ってもらったら、組み立てては分解、そして破壊していたみたいです。
それに、自転車を買ってもらったら、乗らずにペダルを手で回して動いているのをじっと見ていたらしいです。(笑)
おそらく、母が手芸をやっていて、いろいろ作っているのを近くで見ていてなんとなくものづくりには興味があったんでしょうね。

Redox.

自分で改造したり分解したりした物に思い入れがあったのでしょうか?

平田 泰大

それはあります。
昔から、人と同じことをするのが苦手で、改造をして自分だけのオリジナルのものを作ることが好きでした。
オリジナルといっても、売っているパーツをつけるくらいですけどね。(笑)
でも、なにかと人とは違うところを狙っていました。
自慢をしたいというより、みんなで走らせて1番だったら嬉しいみたいな感覚ですね。
小さいころから、競争心が強くて、
やるなら1番を目指したいっていう心理があった気がします。

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(子どもの頃の平田さん1)

夢と現実と挫折

Redox.

当時からものづくりに興味があったんですね。

平田 泰大

そうですね。
車に興味が沸いてきて中学3年生くらいのときに
佐藤琢磨さんというレーサーがF1ですごいセンセーショナルなデビューを果たしたんです。
ものすごい上り詰め方をしたんですよ。
その人に憧れて、自分もF1の世界に入りたいと思うようになったんです。
15, 6歳からではもう遅いのに、いい意味でも悪い意味でも勘違いして、自分もF1に乗るんだ!と、レースの世界に飛び込みました(笑)
はじめは、近場のサーキットに行ってレーシングカートに乗るようになりました。
レンタルがあって、1回3000円みたいな。
そこから、草レースに出るようになって、年に1度の大きいレースにもエントリーさせてもらったりして、ときにはプロと一緒に走ったりしていました。

Redox.

ご両親はお金もかかるのに賛成してくれたんですか?

平田 泰大

レーシングカートをやっていた時はよかったんですが、ステップアップして
1つ上のフォーミュラーカテゴリーにいきたいって言ったときに
最低でも年間500〜600万かかることでそこで完全にダメだと言われました。

Redox.

その時、悔しさはあったのでしょうか?

平田 泰大

人生最大の挫折ですよね。
やりたいけど、やれないっていう。
ものすごく悔しかったけど、泣き寝入りするのが嫌で、
せっかくここまでモチベーションあげたのに、挫折して終わりっていうのに納得することができませんでした。
このモチベーションを、どこかで生かしたいと思い。
F1に乗るんじゃなくて、作る側に行けばいいんじゃないかと方向を変えました。

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文系から理系へ

Redox.

その考えを変えたときはいつでしょうか?

平田 泰大

高3です。
実は、当時僕は文系でした。(笑)
なので、エンジニアに必要な物理などの科目は一切受けたことがありませんでした。
理転するって言ったら、周りに反対されましたね。(笑)
進路相談のときに、
「理系の大学に行って、車をつくるエンジニアになる」と担任に言ったら、
「お前おかしいだろ」とばっさり言われました。(笑)
担任はすぐに両親に電話ですよ。(笑)
でも、両親はまったく反対しなかったんです。
多分、僕の性格を知っているからでしょうね。(笑)
「好きなことやりなさい。その代わり、結果残しなさい。」って背中を押してくれました。
だから、死ぬ気で勉強しました。
大学に受かったときは、本当にうれしかったな~。
あの時に、背中を押してくれた両親には感謝しています。

Redox.

ご両親が平田さんを新しい道への1歩に背中を押してくださったんですね。大学に入学してから就職先を決めるときは、自動車メーカーを狙ったのでしょうか?

平田 泰大

自動車メーカーには興味がありませんでした。なぜかというと、自動車メーカーでは部品が多岐に渡るため、どの部品に携われるかわからない、ということがとても不安に感じたからです。

なので、はじめから何を作るかが決まっている部品メーカーに進もうと思い、曙ブレーキ工業に入社を決めました。やはり、走りに携わる部品を開発したかったので。

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(子どもの頃の平田さん2)

プロダクトデザインの道へ

Redox.

大学で勉強をして、自動車に関わるお仕事に就くことができた平田さんは、
自分が小さいころからイメージしていたこととギャップはありましたか?

平田 泰大

ギャップはありましたね。
量産の世界と先行開発の世界、そしてレースの世界はそれぞれ全く違う世界だなと思いました。
入社して、最初の半年は量産の世界にいたんですが、先行開発やレースの世界に興味があったため、正直あまり楽しめませんでした。(笑)
2年目にはいる前に先行開発の部署にいくことができて、そこで新しいものを作ることを学んでいくようになりました。
当然、レース用製品の開発にもすごい興味があり、その方向も考えていたのですが…作るならかっこいいものを作りたい気持ちが出てきたころに、自動車の世界で有名なあるデザイナーさんとプロジェクトを組むことになったんです。

Redox.

どういったプロジェクトだったんでしょうか?

平田 泰大

簡単にいうと、ブレーキという部品にデザインで付加価値を与えようというプロジェクトです。
プロダクトデザインという付加価値を加えて、
スタイリングをかっこよく、なおかつ機能性も高めるみたいな。
そのプロジェクトチームに自分も立ち上げから入れてもらったんです。
プロダクトデザインに興味があるっていう話を、いろんな人にしていたからだと思います。

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平田 泰大

5人くらいのチームで、当初の目標が“2011年の東京モーターショーに出展する”ことに決まりましたが…本業と別の時間でしかほとんど作業はできませんでした。
仕事量が増えましたが、それがものすごい刺激的で、毎日わくわくしていました。
ただ、うまいこと進んでいたのも束の間で…
自分が考えたアイディアが、「量産できない」という理由でばっさり切られたんです。
何回役員プレゼンをしても、全然だめって言われました。
でも、自分の中でこのアイディアが新しい進歩になると思ったので、
絶対に引き下がりませんでした。
だから、認めてもらうために、死ぬ気で企画をブラッシュアップし続けました。
すると、ついに役員の一人の方が
「つくってみろ。」と言ってくれたんです。
そして、プロトタイプを作って持っていったら、「めちゃくちゃかっこいいじゃねえか」と。
その瞬間は、今でも覚えていますね。
ものづくりで人の考え方や、価値観が変わった瞬間。
「僕がものづくりに求めていることってこれだな」と確信しました。
「ものづくりで世界を変える」って大げさなことだという人がいるけど、
こういうことなんだって何となく体感しました。
結果、社長の前で直接プレゼンして…
目標通り、2011年の東京モーターショーに出展することができました。
ここを境に、F1に対する情熱よりも、
もっとものづくりで社会貢献がしたいって気持ちが芽生えてきました。

Redox.

なぜ、諦めないで企画を練り直し続けることができたのでしょうか?

平田 泰大

過信でしかなかったのかもしれないですね。
「自分はできる」「絶対できる」って言い聞かせていました。
もうね、やるしかないって思い続ける。
で、思い続けると、勉強もするし、考え続けることができました。
先人たちは、そうやって自動車をつくったりして世の中を変えてきたんだろうって思います。
ただひたすら妄想していましたね。(笑)

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(子どもの頃の平田さん3)

WHILLと出会う

Redox.

諦めない気持ちが、人の考えを大きく変えることができるんですね。

平田 泰大

その2011年の東京モーターショーで、WHILLがコンセプトモデルを出していました。
後日、先輩から「おもしろい会社が出展していたよ。」とWHILLのことを教えてもらいました。
調べてみると…
当時WHILLは企業ではなく、ただものづくりが好きなメンバーが、週末集まってコンセプトを立てて作ってみた。みたいな。(笑)
「とんでもない人たちがいる!」って思ったんです。(笑)
当時は、ITやソフトウェアがブームでものづくりがその路線に走っていて
ハードウェアで光を見せられる人たちって、日本では全然いませんでした。
だからこそ、この人たちすごいなって。
でも、当時の自分がやっていたプロジェクトをもう少し続けたいと思っていました。
すると、彼らがすごいスピードでプロダクトをアップデートしていくんです。(笑)
自動車業界の、じっくり開発していくというものづくりのスピードの中にいたから
こんなスピードで、こんなに大きなプロダクトをアップデートできる人達がいることに衝撃を受けましたね。
仕事がひと段落して、自分も新しい世界に行ってみたいと思ったとき、僕には
二択しかありませんでした。
自分で起業する。またはWHILLに入る。
そう思った矢先、Wantedly(ビジネスSNS)で、WHILLが「メカニカルエンジニア1名募集。」という記事を掲載したんです。
「これだ!!!!!!!」と即ボタンを押して、2014年に入社をしました。

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Redox.

運命を感じますね。
実際に、結果を残した会社を辞めるとき、抵抗感はありませんでしたか?
また、会社の人との関係はどうなりましたか?

平田 泰大

抵抗感に関してはありませんでした。
ここで、働きたいと思ったので。
ただ、当時の部署の方々には申し訳ないことをしたと思います…
でも、「本当に頑張りたいんです」と想いを伝えたら最後は背中押してくださりました。
前の会社での経験があったからWHILLに出会うことができたし、いろんな仕事をさせて
いただけたので、本当に今も感謝しています。
「失敗したら戻ってこいよ」って言ってくれて本当に泣きそうになりました。。(笑)

今の仕事のやりがい

Redox.

実際に、WHILLに転職して、今の仕事のやりがいがあれば教えてください。

平田 泰大

入社してからは、そこから今量産しているモデルの設計に携わりました。
そして去年、グッドデザイン賞の大賞をいただくことができました。
でも一番は、お客さまから「生活が変わりました」とってと言っていただけることですね。
やっぱりものづくりで生活は変えられるし世界を変えられるっていうのが今すごい実感としてありますね。
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(パーソナルモビリティを開発している平田さん)

今後の目標

Redox.

平田さんは今後どうなっていきたいですか?

平田 泰大

やっぱり漠然と思うのは、ものづくりで社会貢献がしたいです。
WHILLで世界が徐々に変わりつつあるから、変わった後の世界をみたら、今度はまた自分で新しいモノを作る。という感じですね。
世の中には、不便なことがまだまだ多くあります。
だから、まだまだ世界は変わりますよ。
死ぬまでに、“平田モデル”と言える何か、作りたいですね(笑)
でも、これだけいえるのは、
一人じゃ絶対にものづくりはできないということ。
素晴らしい仲間と一緒に新しいことを追い求めていきたいです。
日本のものづくりを世界に発信して、世の中にどんどん刺激を与えていきたいです!

あとがき

こどもの頃から、ものを改造をして自分だけのオリジナルを作ることが好きだった平田さん。
そんな平田さんは中学生で、「F1ドライバーになる」という夢を抱く。
そしてレーサーの世界に踏み込んだ。しかし、現実は厳しく、夢を諦めざるを得なくなり、大きな挫折を味わうことに。
それでも平田さんは、視点を変え、技術者の道に進むことを決意。
当時文系だった平田さんは、教員の反対を押し切り理系の大学を受験。
ほぼ不可能だと言われながらも、挫折をモチベーションにし、
自分が納得するまで努力をした。そして結果は見事合格。・・・
「自分はできる。」「絶対にできる。」と自分に何度も言い聞かせる。
そのスタイルは今も変わらない。
そして、日本のものづくりを世界に発信できるように日々技術を磨いている。
・・・
うまくいかなかったり、自分の考えが通らなかったりすることはあると思います。
「自分はできる。」と言い聞かせ続けることでモチベーションを維持し、
自ら気持ちを高ぶらせることができるのは平田さんの魅力だと思いました。
これからも、0からものを生み出すエンジニアとしての平田さんのご活躍に期待しています!